2. 特に重要な改ざん・誤訳箇所の修正(基本的な教理に関わる部分)




  ● カリスマ信仰:

  1) マルコ16:9〜20


  アレキサンドリア型写本(シナイ、バチカン、アレキサンドリア)、および これを底本とするすべての現代訳聖書で この部分が削除されています。特に、

    「15  そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
    16  信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。
    17  信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し新しい言葉を語り(*1)、
    18  へびをつかむ(*2)であろう。また、(*3)を飲んでも、決して害を受けない病人に手をおけば、いやされる。」(口語訳、△)


の部分は、カリスマ信仰の土台となる重要な部分の一つで、これが削除されていることがしばしば反カリスマの論拠とされてきました。
  この箇所は、信じるすべての者について、伝道に伴うしるしについて明記された箇所です。この削除は、おそらくグノーシスの思想を持つ者たちが意図的に行ったものと思われます。 アレキサンドリア訳を基にする現代訳の聖書では、この9−20節を括弧に入れて、いかにも信憑性が少ないように見せていますが、歴史的事実は、逆です。
  Tコリント13:10の曲解教理と同様に、敵による、反カリスマの意図が見られます。(↓ 4) )


  *1 「新しい言葉」 = 「異言」(旧約時代には無かった聖霊の働き)
  
*2 「蛇をつかむ(△)」は、ビザ型ギリシャ語聖書では、「οφεισ (受・複・男、serpents) αρουσιν (未来・主・3・複、take up, raise, remove)」 = 「彼らは 蛇どもを 上げる(=十字架にかけるようにして 上げて 除く)であろう」  となる。 この「蛇」とは、動物の蛇ではなく、創世記3章の「(サタンのような)誘惑系の悪霊」 = 特にサタン的な「高慢」、「ねたみ」、「作り話・噂話」などの霊、と解釈できる。 ⇔ :17 の「悪霊」は、一般的な悪霊(病、偶像崇拝など)。 この場合、「手」によってではなく、「みことば」によって撃退する。(マタイ4:1−11)
  (cf. アレ型(改ざん)ギリシャ語聖書では、「εν(by) ταισ(<ο、 that) χερσιν(<χειρ、hands)」 = 「手によって」 という余計なものを前に追加している(×))
  
*3 「θανασιμον = 致命的な(毒殺用の)毒」のこと



  2) Tコリント13:10


   「しかし完全なものが来るとき、 そのとき部分から成るものは廃れます。」(Tコリント13:10)

   ・・・ Textus Receptus( =ビザンチン型) による正しい訳。 「再臨の主」は「来られ」ますが、「聖書」は”来る”だろうか? 「部分」とは、御霊の賜物、主を知る知識などの :12 の「一部分」のこと。

   「全きの来たらん時は、全からぬものは廃(すた)らん。」(舊新約聖書、1995年再版、日本聖書協会)  (→ 聖書 photo

  この箇所も、マルコ16:15−18の削除と同様、反カリスマの論拠とされてきた部分です。
  Tコリント13:10 の箇所は、福音系の”契約神学”で曲解されている典型的なみことばの箇所の一つです。この「全きもの」を「聖書」ととると、”現在は聖書が完成している時で、御霊の賜物の働きは 聖書の完成と共にすたれた。だから、現在は、もう御霊の賜物は必要ないのだ。”という にせ教理の解釈に陥っています。

  ところが、「全き」というように、一部の聖書では人格者で書かれています。すなわち、自動的に、再臨の御子イエス様のことです。聖書ではありません。 イエス様が再び来られるときまでは、御霊の賜物は必須、熱心に求めるべきものということになります。


  さらに、KJV のスコフィールドによる脚注を見ると、Tヨハネ3:2に行っています。
   「2  愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。」
  明らかに、再臨のイエス様です。 ・・・ Tコリント13:10では「賜物」について、Tヨハネ3:2では「品性」について、同じ対(つい)の文章の形になっています。





  ● 終末観:

  3) Tテサロニケ4:16


   「15  わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。
   16  すなわち、主ご自身が天使のかしらの声神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で(×)、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
   17  それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(口語訳)

   「15  For this we say unto you by the word of the Lord, that we which are alive and remain unto the coming of the Lord shall not prevent them which are asleep.
   16  For the Lord himself shall descend from heaven with a shout, with the voice of the archangel, and with the trump of God: and the dead in Christ shall rise first:
   17  Then we which are alive and remain shall be caught up together with them in the clouds, to meet the Lord in the air: and so shall we ever be with the Lord.」(KJV)


  日本語への訳し方が良くなく、これでは最初の御使いの叫び(黙10:3)で携挙(・・艱難期 前 の!×)がなされることになります。KJVによる(上記の)太線部には順番の指定がなく、並列に書かれています。黙示録には、その順番まで明確に書かれています。

  @ 「主は、号令(=(一回の)叫び a shout)と、」 ・・・ 「ししがほえるように大声で叫んだ」+「7つの雷」+「小さな巻物(=黙示録の挿入部:11〜14章))」(黙10:2、3)
  A 「神のラッパの響きのうちに、」 ・・・・ 「神の第7のラッパが響くその日、神の奥義(=空中携挙)が成就する」(黙10:7)
  B 「御使いのかしらの声」 ・・・・・ 「かまを入れて刈り取ってください」(黙14:15)

  ラッパは主の再臨に伴う重要なしるしです。「主は大きなラッパの響きと共に御使いを遣わし、選びの民を集める。」(マタ24:31)
  また、この空中携挙のとき、生き返った死者(=主の祭壇の下にいた殉教者の霊たち(黙6:9)を含む)も 生きている者も、(終わりのラッパ×)最後のラッパ(Tコリ15:52 *(直訳)the last trumpet、=第7のラッパ)と同時に 「朽ちない体に変えられます。」(Tコリント15:51、52 の「奥義」)  * 黙示録の記述とまったく一致
  イエス様はその後、さばき主(黙19:12)として、オリーブ山に降りて来られ(使徒1:11)、大きな地震が起こり山は裂け(・大地溝帯がオリーブ山の中央を通っている)、エルサレムの東の門=黄金門を通って入城されます。(ゼカリヤ14:4) そして、「主を突き刺した者(ユダヤの人々)」は特にそれを見ます。
  第7のラッパが響く時とは、ラッパの日(ユダヤ暦7月1日=9月15日あたり ・・・ 最初のラッパが響く時)と、贖いの日(ユダヤ暦7月10日)に、間隔があることと一致しています。(レビ23:24、27) その後の「仮庵の祭」は、「千年王国」の雛形です。
                                                     →  イスラエルと終末の流れ

  * いわゆる”艱難期 前 携挙説”の間違い:  ”携挙”という言葉は聖書には出てこないが、キリストの再臨に伴って起こるさまざまな出来事を表わす一つの”現代用語”である。この教理は、1830年以 前には存在しなかった教理で、ある婦人(スコットランド出身のマーガレット・マクドナルド)が見た幻を何人かの神学者が宣伝したものであり、有名 な説教者においても賛成反対が分かれた。(賛成:スポルジョン、ジョージ・ミュラー、チャールズ・フィニーなど、反対:ジョン・ウェスレー、 ジョナサン・エドワーズ、マシュー・ヘンリー、など) 正しい聖書の福音書や黙示録の全体的な構成から、艱難期前の携挙はあり得ないと考えられる。



  4) Uペテロ3:10


   「10  しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体(×)は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。」(口語訳)

   「10  But the day of the Lord will come as a thief in the night; in the which the heavens shall pass away with a great noise, and the elements(=構成要素、原子 ○) shall melt with fervent heat, the earth also and the works that are therein shall be burned up. 」(KJV)

  エホバの証人は、HPの”バチカン写本”を礼賛しています。この写本に ペテロの手紙第二が無いからです。
  バチカン写本は、黙示録 および 公同書簡(ヤコブ、Tペテ、UペテTヨハ、Uヨハ、Vヨハ、ユダ)を含まない。

  しかし、自然啓示を見ると、神様の厳然性が分かります。 相対性理論によると、物質は膨大なエネルギーと等価(質量公式: E=mc2)で、何かのきっかけで核融合が起こると、それが地球全体に伝わって、とんでもない膨大なエネルギーに変化します。(1g(1円玉の質量)がすべてエネルギーに変わったとすると 広島型原爆1個分に相当するエネルギーになる。 太陽の中心核では 重力によって高温・高圧になって、常に水素核融合が起こっている。)



  5) マルコ9:44、46、48

   「44  Where their worm dieth not, and the fire is not quenched.
   45  And if thy foot offend thee, cut it off: it is better for thee to enter halt into life, than having two feet to be cast into hell, into the fire that never shall be quenched:
   46  Where their worm dieth not, and the fire is not quenched.
   47  And if thine eye offend thee, pluck it out: it is better for thee to enter into the kingdom of God with one eye, than having two eyes to be cast into hell fire:
   48  Where their worm dieth not, and the fire is not quenched. 」(KJV)

  本来の聖書では、44、46、48節と、3回も 「地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。」と、罪の報いによる、ゲヘナでのさばきの恐ろしさを 非常に強く語っています。(=イザヤ66:24) 口語訳では括弧書きで3回、他は1回のみ。 (cf. マタイ10:28では、この記述は初めからありません。ポイントが別にある為 ・・・ 伝道、あかしをすること、人を恐れてはならない、の意)
  一方、”主の再臨も、地獄も無い” という教理は、グノーシスの一部や、エホバの証人等の異端では、しばしば主張されることです。「黙示録」さえ、まるごと否定してしまっています。に対して生ぬるくし、主のさばきの要素を否定しています。





  ● 主の祈り:

  6) ルカ11:2−4 ・・・ 「主の祈り」の箇所 + マタイ6:9−13


  「2  And he said unto them, When ye pray, say, Our Father which art in heaven, Hallowed be thy name. Thy kingdom come. Thy will be done, as in heaven, so in earth.
  3  Give us day by day our daily bread.
  4  And forgive us our sins; for we also forgive every one that is indebted to us. And lead us not into temptation; but deliver us from  evil.」(KJV)

  下線の部分が、NIV訳、口語訳、新改訳などで削除されています。これは、解説では、「御国が来ますように」の”補足”とありますが、独立した 必要なみことばです。「主の祈り」の全体は、この2つ(「御国が来ますように。」と「御こころの天でなされるように、地でもなされますように。」)に 集約されます。 教会で祈る 主の祈りは、マタイのほうが用いられます。

     ルカ11:2 直訳  「あなたの意志が天でなされるように。そのように、地でも。」 ・・・ be done
  cf. マタイ6:10 直訳  「あなたの意志が天に(常に)あるように、地でなされるように。」 ・・・ as it is in heaven

  * ただし、KJVでは、4節の evil (悪、邪悪・・・抽象名詞)なのに対し、 口語訳では、「悪しき者」(=サタン、悪霊)となっていて、こちらの訳の方が正しいです。
  「Hallowed be thy name.」 は、直訳で 「御名が であれ」。 「御名が崇められますように」の定型文。





  ● 三位一体・御子イエス様の神性:

  7) Tテモテ3:16


  これは、英国王ジェームズ一世が KJV編纂の命の後死去し、その3年後(1627年)にアレキサンドリア写本が届きました(危ないところだった!)が、Tテモテ3:16の記述が異なっているので、当時から議論を呼んだ箇所です。
   「キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた。」(口語訳)

   この下線部: 「God was manifest in the flesh, justified in the Spirit, seen of angels, preached unto the Gentiles, believed on in the world, received up into glory. 」(KJV)

  この「神は」の箇所が、  KJVで 「God」ですが、 これに対し、 シナイ写本の英語訳(→)で 「He」(多くの英語訳で「He」を使う)、  そして、ギリシャ語原語では 「it」 すなわち「それ」 となるまで落とされている。(ギリシャ語: 「神」=ΘC(Θεοσ、テオス)、「それ」=OC(Ουτοσ、フートス) ”それ”とはあまりにもひどいので、日本語では「その方」、あるいは「キリスト」と訳されています。

  ここで、「God」は 冠詞が無くヨハネの福音書1:2、3(→ キリストの根源的ご性質 1.(4))と同様に、形容詞的に用いられています。・・・「神というお方は(神なる方は)、肉体をとって現れ、」  もし、エホバの証人のように”a God”(特定の神、ある一つの神)とするならば、キリストの神性の否定、あるいは、多神教に行き着くことになります。



  8)  Tヨハネ5:7、8


  ヨハネの手紙第一は(・ ヨハネの福音書と文学的に同じ著者といわれる。手紙第二、第三は必ずしもそうでない。)、当時のグノーシス異端への対応を中心テーマの一つとして記述しています。それゆえ、かなり初期の段階で、改ざん・削除の標的にされたと思われます。

   「7  For there are three that bear record(*) in heaven,  the Father, the Word, and the Holy Ghost:  and these three are one.
 8  And there are three that bear witness in earth,  the Spirit, and the water, and the blood:  and these three agree in one. 」(KJV)

   *  bear record ・・・ bear:帯びる、生じる  record:記録(re−cord: 再び 心に戻る)  →  「天の万物に刻まれているように、」

  この箇所は、アレキサンドリア型 および その派生訳のすべての聖書では、7節が丸ごと削除され、8節の内容が7節にまたがって書かれています。KJVの7節では、明らかに、における「神の三位一体」がはっきりと記述され、それに対応する形で、「地上では、御霊と 水((難解!))と 血が 一つとなってあかしする」となっています。

  * ワードプラネット上では、英語(KJV)の他、ギリシャ語、ポーランド語、チェコ語、タイ語、タミル語、ルーマニア語( )つき、アイスランド語[ ]つき、オランダ語、アラビア語、ハンガリー語、アフリカーンス語、ウクライナ語等では明記されています。日本語(口語訳)では欠けています。
  ** 日本語訳では、文語訳、口語訳、新改訳、ニューバイブル、新共同訳 のすべてが欠けています。


  8節の「水と血」とは、最も難解な箇所です。 イエス様の水のバプテスマと 十字架の血、あるいは、イエス様が十字架で死なれたときにわき腹から出た血清(「水」)と血餅(けっぺい、「血」)(ヨハネ19:34) という説がありますが、7節の三位一体に対応して、御父=「水」(?)、ことば=「血(人として来られたイエス様、血はいのち)」、聖霊=「御霊」、とした方が良いかもしれません。

  古い文語訳(舊新約聖書、1995年再版、日本聖書協会)では、8節は、(→ 聖書 photo)
     「證(あかし)するが三つ」
とあるので、「物」ではなく、父・子・聖霊のように、それぞれの「人格者」を表しています。(これも、残念ながら 7節は削除されている)
  また、KJVの注釈より、ヨハネ5:32を参照すると、「御子は 御父とともに証言する」とあります。

  すなわち、イエス様が十字架で死なれたときにわき腹から出てきた「水」と「血」が分離していたことは(医学的には死ぬと自動的に分離する)、「御父」と「御子」が 十字架上でひと時分離されていたことを象徴しているのではないかと考えられます。実に、イエス様にとって、永遠の初めから常に一緒だった御父と、たとえ一瞬であっても分離されることほど おぞましいものは無かったということです。主は、ゲッセマネの祈りにおいて、「血の汗」を流されるほどに深く恐れられ、そして、祈りで勝利されました。(分離されたとき、「エリエリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)。もちろん、その後、十字架上で御父とふたたび一緒になられました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46))  →  十字架上の7つの言葉 4.
  ∴ 地上では、主は、ご自身の血の代価をもって買い取られる「救い主」でおられることを、特に表していると思われます。


  Tヨハネ5:7は、4−5世紀にはすでに改ざんされ、本来は、神の三位一体をかなり直接的に表していた箇所と考えられます。聖書における 「3」、「1」という数字には特別な意味があり、ふさわしいものが当てはめられ、調和するべきだからです。
  (参考)  ・ 地の万物に刻まれた「自然啓示」もあかししています。  「三位一体の神は 愛」 ・・・  iπ = −1 (オイラーの恒等式)




  9) ヨハネ8:24、28、58、 18:6、8、 (4:26)、 マルコ14:62、 ルカ22:70、 黙2:23


   「24  だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であること(×)をあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである。」(口語訳)
   「28  そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること(×)、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。」(口語訳)
   「24  I told you that you would die in your sins; if you do not believe that I am the one I claim to be(×), you will indeed die in your sins.」(NIV)

   「24  I said therefore unto you, that ye shall die in your sins: for if ye believe not that I am he(△), ye shall die in your sins. 」(KJV)
   「28  Then said Jesus unto them, When ye have lifted up the Son of man, then shall ye know that I am he(△), and that I do nothing of myself; but as my Father hath taught me, I speak these things. 」(KJV)

  ・・・・ これは、直訳((ギ) εγω  ειμι = エゴー エイミ = 私がある(○)、 → The Holy Bible (Greek))より(改ざん写本のシナイ写本でさえも、これは例外的に、同じく、εγω  ειμι(エゴー エイミ)となっている。 KJVは当時のヘブライ語からの訳が一部弱かった。)

  「わたしが『わたしは ある』という者であることを信じなければ、」となって、出エジプト3:14で、が 燃える柴の火からモーセに自己紹介された時の言葉、
    「エヘイエ アッシェル エヘイエ = I am that I am. = わたしは、私は在るという者である。」
という箇所をさして言っています。(特に、”モーセの座”についていたパリサイ人などの宗教指導者たちに言われました。)


  イエス様は、旧約聖書でモーセに現れた神、「主(ヤハウエ)」と同じであること(=神の三位一体)を、ここで あかしされました。(↓ 英語-ヘブライ語(マソラ本文)対訳、 注)70人ギリシャ語訳では間違い)

     

  この、EHYEは、未完了相の1人称・単数・男性(I am, I was, I will be)であり、永遠の昔から 永遠の未来まで 在り続ける という意味が含まれています。 3人称の場合は、「YHYH、イヘイエー」を経て、 「YHWH、ヤハウェ」。
  ( → 主の御名 )


  同様に、
  ・ ヨハネ18:6、8:
   「わたしがそれ(×)だ」(ヨハネ18:6、8) = 「εγω  ειμι」 = エゴー エイミ」
    = 私がある(○)=「I AM THAT I AM」(○)(The Holy Bible (Greek)) = 「わたしは「ある」という者だ」

  ・ ヨハネ8:58 : KJVにも、 「Before Abraham was, I am. 」 ((ギ) 「Πριν γινει ο Αβρααμ εγω ειμαι. 」、 (NKJV) 「Before Abraham was, I AM.」)であり、正しく記述されています。
    ・・・ I am とは、現在形で、その前の Abraham was の過去形と異なるので、出エジプト3:14の固有名詞を指すことになります。

  ・ マルコ14:62、ルカ22:70: ヨハネ以外の福音書でも、 大祭司らが尋ねたとき、イエス様が、「わたしは、それです。」(×、新改訳)と答えられた箇所が、 「that I am」(KJV)、 「εγω ειμι」(ビザンチン型ギリシャ語聖書) であり、  「わたしは 『ある』という者だ。」 となります。

  ・ 黙示録2:23:  テアテラ教会に対して、主イエス様が、「在りて在る者」として語っておられます。
  「οτι εγω ειμι ο ερευνων  νεφρουσ  και  καρδιασ」 = 「that I am he (△、在る者) which searcheth the reins(手綱×) and hearts(△)」(KJV)  ・・・ νεφρουσ 腎臓 = 感情の座、 καρδιασ 心臓 ・・・ 知性の座 と当時考えられていた

  cf. ヘブル4:12  ψυχησ τε και πνευματοσ (プニューマトス)  soul and spirit 魂と霊
     Tテサロニケ5:23  το πνευμα (プニューマ) και η ψυχη και το σωμα spirit and soul and body 霊と魂と体





                戻る       トップへ戻る